愛の遣り取り
「愛している」と言ってほしい。
どうも今日の私はいけない。どうにも不安定だ。
彼女と次回会う時の条件。それは「その日のうちに解散すること」「お酒を飲まないこと」だ。
けれど私はそれ以上を望んでしまった。彼女の隣で朝を迎えたいと、そんなわがままを言ってしまったのだ。我慢が効かなくなった。気が付いた時には彼女にメッセージを送っていたのだ。送ってから気が付いた。自分が駄々を捏ねてしまったのだと。そして後悔をした。なんて軽率な行動だろう、と。
今朝だって、彼女は電話で「蛍、愛しているよ」と言葉をくれた。それなのに、もう足りない。
さあ、そこで、だ。私はほぼ常にと言って良い程彼女について考えている。考えないようにしようとも、頭の中は彼女のことばかりだ。自分でも気持ちの悪い執着だと思う。
その為、彼女を忘れられる何らかの趣味が欲しい。
読書であったり、絵を描くことであったり。色々取り組もうとしてはいるものの、どうもどれもがしっくりこない。ゲームをプレイしようとしても、どこか上の空になってしまい、結局は集中することが出来ないのだ。続いていることといえば、このブログの更新くらいのものか。
けれどこのブログも彼女に対する想いを綴っている。結局は彼女から離れることは出来ないのだ。
彼女も、私のことを考えてくれているのだろうか。
彼女は、よく焼き餅を妬く。つい先日も私が元カノと遊びに行ったと聞き、体調を崩してしまったと言っていた。焼き餅を妬く必要など、全くないのに。私は彼女しか見ていないのだから。
他の誰と居たとて、恋愛的な意味で好きになることは無いだろう。安心してねと言っても、彼女は不安になってしまうのだろうけれど。
一層の事他の誰かを好きになれたらと思うが、生憎今はそれが出来ない。
彼女しか見てない。いいや、見れない。だから私は彼女に好きだと言ってほしい。
愛していると、そう何度でも確かめたくなってしまうのだ。それは私が彼女を愛しているように、彼女にも私を愛していてほしいから。
一方的な片思いであれば、まだ楽だったのだろうか。そしたら、時間はかかるかもしれないけれど、いずれ諦めもついて、また次へと踏み出せたのかもしれない。たらればの話など、考えても無意味だが。
愛しているから愛されたい。その感情はあまりにも自己中心的だ。他人の感情は他人のものだ。私がどうこうできるものでもない。彼女に愛されたいというのも結局は私のエゴでしかないのだから。
それでも。
私は貴方を愛している。だから、貴方からも、同じ言葉を聞きたいんだ。
ネットニュース
某人気声優の不倫報道をネットで見かけた。
事情を見れば、現在48の声優と35の放送作家の女性が、10年に渡り不倫していたそうだ。
彼女は25から10年間、相手が結婚している事を知らなかったそうだ。二人の将来の話も出ていたそうなのに、彼女は裏切られた。
不倫をしていた、と言う件に対しては特に言及しない。自分だってこう言うことをしているのだ。
ただ、どうしても彼らの関係が、私に重なる。それはひとえに年齢差のせいもあるのだろう。
25からの10年間。それは彼女と私が約束した年数の倍だ。
私は彼女のことを10年間待つ気はない。だからこそ、10年もの間相手を想い続けた彼女を素直に尊敬するのだ。
彼女が今回、声優が結婚していると耳にした際に受けたダメージはどれほどのものだろう。想像するだけで、胸が張り裂けそうだ。
記事を読むに、声優は現妻と別れる気は一切ないそうだ。
結局、不倫とはそういうものなのだろう。不倫が成就することなど、あってはならない。
私は、今回の被害者ともなる彼女にえらく共感している。それと同時に、声優に対する怒りもある。
結婚する気もない癖に、将来の話を持ち出したこと。そして、夢を見せたまま10年も関係を続けたこと。
叶わぬ夢なら願わない方がマシだ。それも結婚などといった、将来を共にすると、そう人生を左右するものであるなら特に。
実際に10年待ち続けて、その夢が叶わない、なんて。他人の人生を奪っておきながら、どうして悪びれもしないのだろう。記事やTwitterでの反応を見ても、特段申し訳なさそうにしているわけでもなさそうだ。
結局はただの不倫。遊びだった、と言うことなのだろうか。
25歳から35歳。その大切な10年間も、不倫相手に捧げて終わってしまうなんて、そんな辛い話あるか。
私の場合、既に彼女が結婚していることを分かっている。可愛い子供がいることも。
彼女は将来を選べない。それはつまりどういうことか。私たちの末路が、この声優らのようなものになるかもしれない、と言うことだ。
彼女と私は恋人ではない。この関係につける名前が分からないのだ。ただ、恋人と呼べるはずもない。
一体私たちの結末はどうなってしまうのだろう。
想像もできない。否、想像することを拒否してしまっているのだろう。
今回の記事、不倫を責め立てるわけではない。ただ、考えてしまったのだ。彼女と私の未来について。そして、私は形容し難い不安に襲われた。
だからと言って他人に自身の今の感情を伝える事もできない。
怖い。結局はこの一言に集約する。
彼女とこれからどうなっていくのか。分からないことが、すごく怖い。
裏切られるかもしれない。その裏切りだと感じることも、私のわがままに過ぎないのに。
純潔と不潔
今回はセックスの話をしようと思う。私を一番悩ませている問題だ。
私はセックスは好きな人としか出来ないと思っている。
セックスをすればするほど相手のことを好きになる。身体だけの関係なんてあり得ない。セックスには必ず愛情が必要だ。
快楽を求めるだけの行為ではない。相手と好きを確かめ合う好意。
愛していなければ人を抱く事もできないし、愛してなければ抱かれる事もできない、尊い行為なのだ。
決して誰彼かわまずしてはいけないものだし、セックスフレンドなんて以ての外だ。身体だけの関係なんて、そんな虚しいものがあってたまるか。
身体を全て開き、差し出すのだ。愛情が無いと出来るわけない。
……などと思う潔癖な私は、彼女が旦那に抱かれると言うたびに狂おしいほどの嫉妬を覚える。
まるで童貞の様だと思うが、それもまた自分のうちのひとつなのだ。
口ではどの様なことを言っても、やはり他人の体温を覚える前の感情は消えないものだ。
私は愛が無くとも情だけでセックスできることを知っている。ただ性欲を満たす為に、好きでもない知り合い程度の男と寝たことだってある。
一番初めに付き合っていた彼女とも、別れる直前は次の日のバイトの事を考えながら抱かれていたくらいだ。
セックスをすればする程好きになる。そんなことは無いと、自身の経験からもう分かっている。
むしろ気分の乗らないセックスは面倒であり、憂鬱であるという事も。
そんな自身が、冒頭のような何がを持っているのはどこかちぐはぐなようにも感じられる。
潔癖な自分と、汚れてしまった自分。
不倫相手である彼女とは、恋人であると言えない。それに代わる言葉も、持ち合わせてはいないのだ。
だから嫉妬する権利なんてない。戸籍で結ばれた旦那と、関係性を表現できないような、何処の馬の骨とも知らない女。正しいのはどちらかだなんて、火を見るよりも明らかだ。
しかし私は、彼女が旦那に抱かれたと知る度に黒い焔で身を焼き焦がされる。
この気持ちと向き合える、はたまた、何も感じずに居られる日を迎えられるのだろうか。
もし来るのであれば、早く来てほしい。この苦しみを耐えるには、余りにも痛みを伴うから。
真空ポットの限界
文字を書く前に、一杯の珈琲を淹れた。コルクのコースターに乗せられたマグカップからは湯気が立ち上り、程よい酸味とコクが私の執筆活動を後押ししてくれるようだった。
ーーというのは数刻前の話だ。今は外気にされされたそれは冷え切り、ただの苦くて酸っぱい液体へと変化してしまった。物質としては同じ筈なのに、こうも感じ方が変わるのは、やはり時間の経過による劣化が大きいのだろう。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
平家物語のこの一文は、学生時代に聞き覚えがある者が大半だろう。
どんなものであっても、必ず衰える。これは珈琲だけではない。全ての物事に共通して言えることだ。
その中でも今回は、恋愛感情について取り上げようと思う。
いくら好きでも、その気持ちが衰える日が来る。私は恋をする時、それを恐れている。
今は好きだと言ってくれたとしても、その好意はいつまで続くのだろうか。自身は継続して好かれるほどの人物では決してない。それは恋愛だけではない、全ての対人関係に言えるだろう。
恋人だと、より一層その思いは強くなる。飽きられたらどうしよう。捨てられてしまったらどう生きていけば良いのか分からない。世間ではそれを依存と呼ぶ。
自身、幼い頃から依存を繰り返し生きてきた。今更になって価値観は変えられないだろう。
しかし、世の中には恋愛の成功例も星の数ほど存在する。
一番身近な例を挙げるとするならば、それは私の祖父母だ。祖父は生涯祖母を愛し、祖母も亡き祖父の事を愛おしげに語る。彼らは一生の愛を貫いたのだ。
私が現在不安に思うのは、勿論この関係が不倫だからという事もある。
それ以上に、彼女には生涯を誓い合った夫と、血を分けた愛おしい息子と生活を共にしているからだ。
その環境は5年間変えることはないと約束した。それは守るつもりだ。
けれど旦那に愛され、仲の良い家庭生活を送る彼女を見ていると、彼女の気持ちの変化をどうしても恐れてしまうのだ。
彼女の旦那は毎晩彼女に愛してると告げ、彼女を抱き、そうして一つの家庭を養っている。
天地をひっくり返したとしても、彼の方が圧倒的に優れているのだ。
疑り深い性格は、何とも厄介なものである。
この温かい情熱だけをポットに閉じ込めて置けたらいいのに。そうは出来ないのが、この私という存在なのだ。
道標
主治医は私が不倫していることを知っている。調子が悪化した際、自身から主治医に打ち明けたのだ。
嘘か誠かはさておき、彼も似た経験をした事があるのだと話してくれた。
そんな彼も今では家庭を持ち、子供にも恵まれているようだ。
では、私は?
今の思いに折り合いをつけ、別の誰かと人生を共に歩む事になるのだろうか。
現在、そんな想像は出来ない。他に好きになれる人が見つかれば、気は楽になるのだろう。だからといって無理に相手を探そうとするのは、自分に対しても相手に対しても不誠実だ。
では逆に考えるとしよう。もし私と人生を共に歩みたいと思っている人間に好意を向けられたとしたら?
もしもの話だ。思い上がるのも大概にしろ、という突っ込みは後で幾らでも聞く。
続きを話そう。もしその人のことを好きになれたとすれば、今自身を蝕む苦悩とは別れることができるのだろうか。
もしそうなれば、誰にとってもハッピーエンドだ。不倫相手である彼女も、私も。誰からも反対されることはない。隠れて連絡を取ることも、関係を持つことを秘める必要もない。
一度犯してしまった罪が消えることはないが、それでも再スタートできることには変わりがない。ある種理想の形でもあるだろう。
しかし黙っていてもそんな相手は現れない。貪欲に探さなければいけないだろう。
ただ、たとえ好かれていたとしても自分がその好意を返せないのだとしたら。それは、自分を好いてくれる相手を傷付ける事になる。
今だって加害者であることは間違いない。けれどどうしても被害者面をしてしまいたくなる。
そんな今、自分に愛情を向けてくれる人間を利用し、踏み躙ったら? 余計な被害を生むだけで、何の解決にもならない。
不幸というものは連鎖していく。一度道を踏み違えば、堕ちていくのは簡単だ。
出来ることならこのスパイラルは最小限に留めたい。今更何を、と言われるかもしれないが。
私自身は間違いなく恋愛脳の人間だ。恋人からもそうは見えないと言われるが、自分ではそう認識している。
恋愛の好意と友人への好意。それはノットイコールだ。友人から恋人となり付き合った例もあるが、根本的に友人から恋人へと感情をシフトしないとうまくいかない。
長々と話したが、今、恋や愛。そう言った執着を向けているのは、結局彼女以外に居ないのだ。
他に目を向けようとしても無理な話で、今も尚立ち往生している。
夢を、見るのだ。彼女以外と幸せになって、彼女と私が別々の道を歩むことを。
けれど道標はあれど、その先に道はない。ひたすらに真っ黒な「正解」が、私の前に立ち憚るのだ。
愛憎過多
愛情と憎悪は両立するものだ。
愛する、というのは綺麗な感情だけでは成り立たない。もし自分の愛は純潔であり、一切の汚れがないと思い込んでいるのであれば、それはもう純愛ではない。自らの愛こそ本物だと主張することが、既にエゴイズムなのではないか。
期待を何度も裏切られ、それでも愛と宣うのであれば、それは随分心が広いか、救いようの馬鹿か。どちらかだろう。
誰もが愛という蓑に隠れ、人に期待することを正当化する。その時もし期待に外れた行動をされたのならば、「失望」という感情を抱くだろう。ネガティブな感情が積み重なれば、愛が裏返ることもごく自然だ。盲信も、いずれは冷める。
さて、次は憎悪について話を進めていこう。人を憎む。それには大層なエネルギーが必要だ。
愛と同等までとは言わないが、憎悪する、というのは自らの感情を大きく揺さぶるものである。
憎しみが一周回って愛おしいと錯覚する人間だっているものだ。
「可愛さ余って憎さ100倍」。こんなことわざがある。どうして可愛いのに憎さを抱くのか。それほどまでに大きな感情は姿形を変えやすいものだ。
愛情と憎悪が両立する。
それは私にとっても当て嵌まる言葉だ。まず愛とは何かなどと誰しもが考える陳腐な問題は捨て置く。
彼女に対してどう思っているのか。生活に支障を来たす程に心を蝕まれている。しかしそれは間違いなく愛情だけではない。
愛情。私は決して心が広いわけではない。以前はそこそこに物事を許容していたようにも思えるが、最近はめっきり駄目だ。つまりはどういうことか。
私は救いようのない馬鹿なのだ。愚かだと、他人に言われなくとも自認している。
確かに昔から頭の出来は悪いし、回転速度だって遅い。だが、不倫という行為がいかに他人を傷付けるかなど猿にだって分かることだ。
正直に申し上げれば、苦しい。辛くて仕方がない。でも今はどうにもならない。どうすることも、出来ないのだから。
相反する気持ちを飼い慣らし、自分自身に折り合いを付けていく。それにはまだ時間が掛かりそうだ。
身体計
食べることは好きだ。否、好きだった、とでも言っておこうか。
甘いもの、しょっぱいもの、酸っぱいもの。辛いものは少し苦手ではあったが、どんな食べ物も美味しく食べていた。体重のことなど、一切気にしないで。
今はもうあの頃に戻れないと思う。戻りたいと願うこともないが。それでも少しだけ羨ましく感じてしまう。純粋に食というものを楽しめていた事に。
例えば、ポテトチップス。以前は一般的なスーパーに陳列されている一番大きなものですら、無邪気に食べていた。しかし今ではどの菓子でさえも、成分表を見ずにはいられない。
ものを食べるときも、無意識下でカロリーを計算してしまう。1年近くダイエットを続ける中で、そんな悪癖が身に付いてしまった。
さて、ダイエットと言ったが、私はこの1年で20キロ以上の減量に成功した。体重が落ち切ったのは、今年の8月だったか。そこからキープを続けているが、いくつか問題が生じた。
一つは、食事を摂取する事が怖くなったのだ。食べることが大好きで、食いしん坊キャラだと周りも認識していた。1年前の私には想像も出来ないことだ。
その成果、と言っていいのか。今ではBMIも18.5を切り、WHOの指標から見ても痩せ型に分類されるところまで来た。
ここで二つ目の問題だ。ここまで自分を追い込んだことによる、攻撃性の増幅だ。
この1年で私は随分と神経質になった。勿論ダイエット以外にも要因は腐るほど有るが、瑣末な事にすぐ苛立ちを覚えるのだ。
何より一番嫌なのは、他人と自分を比較しがちな性格になってしまった事だ。恰幅の良い人間を見ると、ある種の嫉妬さえ感じる。自分の好きなものを好きに食べることが出来て羨ましい、と。
他人と自分。それは比較すべきものではない。ポジティブな面においても、ネガティブな面においてもだ。
「自分はこんなに頑張っているのに」それはただの承認欲求に過ぎず、人に押し付けるべきものではない。頭では理解しているつもりだ。
それでもどうしても他人と比べ、苛立ったり、落ち込んだりする。傍迷惑もいいところだ。
ダイエット。それは女子にとって切っても切り離せない存在だ。
しかしそのせいで元の人格を損なうようであれば、それはダイエットの失敗と言える。
どのような物事でも、やり過ぎは良くない。そう、身をもって実感した次第だ。