愛憎過多
愛情と憎悪は両立するものだ。
愛する、というのは綺麗な感情だけでは成り立たない。もし自分の愛は純潔であり、一切の汚れがないと思い込んでいるのであれば、それはもう純愛ではない。自らの愛こそ本物だと主張することが、既にエゴイズムなのではないか。
期待を何度も裏切られ、それでも愛と宣うのであれば、それは随分心が広いか、救いようの馬鹿か。どちらかだろう。
誰もが愛という蓑に隠れ、人に期待することを正当化する。その時もし期待に外れた行動をされたのならば、「失望」という感情を抱くだろう。ネガティブな感情が積み重なれば、愛が裏返ることもごく自然だ。盲信も、いずれは冷める。
さて、次は憎悪について話を進めていこう。人を憎む。それには大層なエネルギーが必要だ。
愛と同等までとは言わないが、憎悪する、というのは自らの感情を大きく揺さぶるものである。
憎しみが一周回って愛おしいと錯覚する人間だっているものだ。
「可愛さ余って憎さ100倍」。こんなことわざがある。どうして可愛いのに憎さを抱くのか。それほどまでに大きな感情は姿形を変えやすいものだ。
愛情と憎悪が両立する。
それは私にとっても当て嵌まる言葉だ。まず愛とは何かなどと誰しもが考える陳腐な問題は捨て置く。
彼女に対してどう思っているのか。生活に支障を来たす程に心を蝕まれている。しかしそれは間違いなく愛情だけではない。
愛情。私は決して心が広いわけではない。以前はそこそこに物事を許容していたようにも思えるが、最近はめっきり駄目だ。つまりはどういうことか。
私は救いようのない馬鹿なのだ。愚かだと、他人に言われなくとも自認している。
確かに昔から頭の出来は悪いし、回転速度だって遅い。だが、不倫という行為がいかに他人を傷付けるかなど猿にだって分かることだ。
正直に申し上げれば、苦しい。辛くて仕方がない。でも今はどうにもならない。どうすることも、出来ないのだから。
相反する気持ちを飼い慣らし、自分自身に折り合いを付けていく。それにはまだ時間が掛かりそうだ。