ネリネの花が咲く頃に

百合不倫相手と別れ、5年後の再会の約束までに自分の感情にケリをつけるまでのブログ。再会は果たされるのか。

八方塞がり

 どうにもこうにもならない。どうするつもりもないし、どうにかなるものでもないのだろう。もう本当に感情というものはままならない。どうすれば良いのかだって分からない。

 最善の結末。それは私たち二人が別れること。それがどう考えても一番のハッピーエンドだ。

 自分の感情すら見えない今、他人の感情なんて見えるはずもない。恋愛小説ーーそれも真っ当なものは今は書ける筈もない。書いたとしても薄暗い、登場人物が不幸になるような小説だ。そんな訳で、やはり私はこうしてブログという場所に感情を吐き出すしかできないのだ。

 他人の気持ちが分かるようなら不倫などしていない。不倫など、他人を踏み躙る以外の何者でも無い行為だ。分かってはいる。脳で理解しようともしている。しかしここで理性ではなく本能が勝ってしまうのは、性というのか、生まれ持ってしまったものというのか。

 今私は何をすべきなのか。今私は思考することを拒否している。物事を考えなければ脳は衰える。この瞬間も私の脳細胞はひとつひとつと、減っているのだろう。

 私は怖い。正しいことが怖いのだ。最適解は理解している。けれど私は彼女に捨てられることを、今現在何よりも恐れている。

 今の私には彼女がいない生活など考えられない。どうやって呼吸をするのか、それすらも忘れてしまうことだろう。これは決して大袈裟などではない。紛れもない事実なのだ。そしてそれは重く私にのし掛かる。

 旦那と子供を持つ彼女にここまで深く依存してしまったこと。だからといって一度出逢ってしまえば、別の道を辿れたかというと、そうではない。きっとまた同じことを繰り返してしまう。愚かなまでに。

 もし友人が私と同じ立場に置かれていたとしたら、私は絶対にその関係を止めるよう忠告する。友人が傷つくことが目に見えているからだ。

 けれど忠告はしつつ、なんだかんだで私の話を聞いてくれる友人がいる。友人は私に負けず劣らずの屑だ。友人のエピソードに思わず呆れたが、彼女に言わせてみれば私達はどっこいどっこいらしい。

 友人の事は置いておこう。その唯一の例外は除くとしても、私は本来一人が考えることがあまり得意ではない。出来るなら酒を呑み、馬鹿のように記憶を飛ばしていたい。しかし今は諸事情により酒を呑むこともできず、彼女と通話することも出来ない長い長い夜を過ごしている。

 さて、最初に書いたように今は小説を書くことすらできない。昨年の今頃は必死になって創作をしていた筈だ。筈だ、というのも、正直彼女と不倫関係になるまでどのように夜を過ごしていたのかを思い出せないのだ。

 彼女に出会うまでは友人らと通話していたのだろうが、今このような状況下に置かれている私と通話してくれる人間は果たしているのだろうか。もし居たとして、私は彼女らと以前と変わらぬように接することが出来るのだろうか。

 私はこの一年で大きく変わった。それは内面も外見もだ。古くからの友人に再会した際にも、「誰か分からなかった」と言われるくらいだ。イメージチェンジには成功しているのだろう。

 内面は、また次の記事にでも詳しく書こうと思う。

 過去の自分とは価値観などはガラリと変わった。特に自覚があるのは、表情の変化だ。昔はよく「あなたはいつも笑っている」と言われていた。しかし今ふとした瞬間に自らの姿が鏡やガラスに映ると、鬱々とした表情を浮かべていたり、眉間に皺が寄っていたりする。いつも笑っているというイメージとは程遠いものだ。

 だが自分にはどうすることも出来ない。人前では表情をコントロールできたとしても、一人でいる時までそんな気を使うのは面倒だからだ。

 変わってしまった環境と、自分自身と。一体これから自分はどうなってしまうのだろう。

 ほんの少し先の未来でさえも、今の私には想像できないのだ。