ネリネの花が咲く頃に

百合不倫相手と別れ、5年後の再会の約束までに自分の感情にケリをつけるまでのブログ。再会は果たされるのか。

追想

 友人の話をしよう。大切な友人。けれど今は会うこともない、連絡先も知らない友人の話だ。

 現在の不倫相手を「彼女」と記述し、友人の事はA子とでも言おうか。私は彼女の事が大好きだった。否、もしまた再会したならば今も尚行為的に思うだろう。

 そんなA子は、平気で嘘を吐いた。前回言っていたことと、次に会った時に言っていることが全く違う。そんなことはざらだった。それでも私はA子の話に魅了された。華々しい美人で、化粧を取ったとしても見劣りのしない、根っからの美人だ。明るく皆から好かれるA子。そんなA子と特別仲良くできたことは私にとってすごく誇らしかった。

 誰にでも優しく、ユーモアのある。何より絵が上手い。そんな彼女が絵を描き、私が小説を書き、一次創作を続けていた。

 さて、ここで話は変わるが、以前気になってとある事を調べた。それは「ホスト通い」と「不倫」、どちらの方がいけないことか、と言うものだ。

 その質問サイトでは不倫の方が悪だと述べられていた。なんせ前に調べた為、記憶は曖昧だが。

 端的に言えば、A子はホストにハマった。みるみるうちに外見も派手になり、内面も攻撃的になったのではないかと思う。以前のA子は居なくなってしまったのかと、どこか寂しくもなった。

 私はそんなA子を救えると思っていた。荒んでいったA子を元に戻せるのではないかと、そう思ったのだ。結局それは無理であったが。

 何故かと疑問に思った。A子はホストに行かずとも周りから愛されていたように思う。そのままのA子が好きだという人も、大勢いたはずだ。

 さて、何故A子の話をしたのか。私はA子と共にいる時、何も出来ずに歯痒い思いをした。

 しかし今、私がそんな思いを他人にさせているのではないかと時折不安になるのだ。

 昔の私のふりをしたところで、堕ちた自分を隠せる訳でもない。上っ面だけのつまらない人間だ。

 今の私は神経質だ。些細なことですぐに苛立つ。穏やかとか言い難いだろう。

 それは自身の外見に厳しくなったことにも関係するのだろう。そんな自分が嫌で仕方がないし、出来ることならこのような自分は友人には晒したくない。けれどそういった思想というのは本人の意思を問わず全面に出てくるものだ。言葉には出さなくても、態度で伝わってしまうこともあるだろう。

 そう言ったこともあり、現在友人に会うのは気が引けてしまう。醜い自分を見られたくないと思ってしまうのだ。

 時折友人にこんなことを言われる事がある。「前のあなたが好き」「あなたは化粧してもしなくても変わらないよ」と。

 そう言われると私は当惑する。どうして? 昔の私は今よりずっと太っていたし、化粧だって下手くそだった。今の方がダイエットをして体型を整えて、化粧だって上手くなった筈なのに。世間一般の言う「普通」に近付けている筈なのに。

 けれど、昔の自分の方が優しげだった、と言うのは間違いない。分かっている。その優しさが自分の中から失われてしまったと言うことくらい。

 内面と外見。どちらが良いか。昔の私なら「内面」と即答していただろう。

 しかし今はどうか。やはり人間の外見は大切だと思う。例え幾ら内面が良かったとしても、ある程度清潔であるだとか、服装に気を使うだとか。それが最低限必要なことでは無いか。そう考えてしまうのだ。

 今回の記事は友人のこと、そして、他人から見た自分について話をした。今、きっと私を変えられるのは私しかいないのだろう。

 それはきっと、A子もそうだったのではないか。そう憶測してしまう。

 今、A子にはどこかで幸せに笑っていてほしい。そう願わずにはいられないのだ。