ネリネの花が咲く頃に

百合不倫相手と別れ、5年後の再会の約束までに自分の感情にケリをつけるまでのブログ。再会は果たされるのか。

思し召より米の飯

 タイトルのことわざは、なかなかに面白いものだと思う。意味は「思いやりのある言葉よりも実際に役に立つものをもらう方が有難いと言うこと。口先だけの好意より、腹の足しになる米の飯をもらう方が有難い」と言うものらしい。語感も良く、思わず口に出したくなるくらいだ。

 なぜこの話になったかというと、今回は食の話を取り上げようと思ったからだ。そしてタイトルに困った私は、ネットの海を漂った。その時この言葉に出会ったのだ。これだ、と思い、現在こうして筆を取るに至っている。

 こんなにも面白いことわざが出てきたのだ。これを使わない手はない。と言うことで、今回の記事は食の話題ではなく、タイトルに基づいた記事を書いていこうと思う。

 この言葉は、かなり物事の本質を突いているものだと思う。前にデヴィ夫人の言葉、端的に言うと愛か金か。その回答の一種となり得るだろう。

 私の不倫相手も言っていた。安定した生活がなければ、愛は生まれても未来はない。そう言ったようなことだ。

 確かにそうだ。例えは悪いかもしれないが、今友人に相談に乗って同情してもらうよりは、ご飯をご馳走してもらって楽しい時間を共有する方が私は望ましい。

 勿論好意というものは尊い。決して蔑ろにしてはいけないものだ。

 けれどやはり言葉よりも物質的なものの方が良い。そう言った考えがあるのも、当然のことなのだ。

 それに関連して、というのだろうか。私は彼女と毎日愛の言葉を交わしている。勿論その時間も大切だ。けれど私はそれ以上に彼女に会いたい。

 贈り合う言葉だって嬉しい。けれど私はそれよりも彼女に抱きしめられたいのだ。そして叶うなら、愛していると言ってほしい。

 やはり恋人同士は会ってこそだと思う自分がいる。遠距離であるからこそのメリットも確かにあるのだろう。けれど私は恋人には傍に居てほしいと思ってしまう。遠距離だとしても、定期的に会いたい。それが叶わぬ理由は複数あるが、それでも願うのはタダだろう。

 私が彼女と不倫関係になったのだって、実際に会ったことがきっかけだった。半年の通話で培ってきたものは数えきれないほどある。そもそもこの期間がなければ、彼女とこうはなっていなかったのだから。

 関係が変わったのは、やはり直接会話を交わして、互いの存在を現実世界で認知してからだ。どんな言葉より、実際に会って伝える好意の方が、ずっと伝わりやすいのだろう。

 思し召より米の飯。そう言ってしまえばどこか冷淡なように感じる。しかし、どんなメッセージよりも一度の逢瀬が良い。そう言い換えれば、共感する人も多いのではないか。

 彼女に会いたい。私はいつもそうだ。どんなことを考えていようとも、結局は彼女に帰着する。今回だって、結局彼女の話になった。

 ことわざ、というものは人々の知恵を言葉に表したものだと言われている。生活に寄り添った言葉たち。

 そんな言葉でさえも、私から彼女への恋慕を示すラブレターの一文となるのだ。